「ディオクレティアヌス宮殿って、ただの宮殿じゃないの?」「なぜ遺跡の中に今も人が住んでいるのだろう?」
世界遺産「ディオクレティアヌス宮殿とスプリトの歴史的建造物群」について、そんな疑問をお持ちではありませんか。この場所は、単なる美しい遺跡ではありません。皇帝の引退後の住まいが、歴史の荒波の中で難民を受け入れ、一つの「生きた都市」へと変貌を遂げた、世界でも類を見ない特異な歴史を持っています。
この記事では、なぜこの宮殿が都市になったのか、その劇的な歴史と世界遺産としての7つの核心的価値を、専門家が分かりやすく徹底解説します。
読み終える頃には、あなたもスプリトの専門家。世界遺産検定の学習や、クロアチアへの旅行が、何倍も深く、面白いものになるはずです。
世界遺産の名前 | Historical Complex of Split with the Palace of Diocletian(ディオクレティアヌス宮殿を含むスプリットの歴史的複合施設) |
カテゴリ | 文化遺産(Cultural) |
地域 | ヨーロッパと北米(Europe and North America) |
国 | クロアチア(Croatia) |
評価されたもの |
(ii)(iii)(iv) ii: 重要な文化的価値の交流を示す例 iii: 現存または消滅した文化的伝統の稀有な証明 iv: 建築・都市計画の発展段階を示す顕著な例 |
登録年 | 1979年 |
世界遺産スプリトの「比類なき価値」が一目でわかる比較表
世界中に数ある古代ローマ遺跡の中で、スプリトがどれほどユニークな存在なのか。まずは他の有名な遺跡と比較した、その決定的な違いを見てみましょう。
比較項目 | スプリト(ディオクレティアヌス宮殿) | 一般的なローマ遺跡(例:ポンペイ、フォロ・ロマーノ) |
存在形態 | 今も人々が暮らし続ける「生きた都市」 | 時が止まった「廃墟」「博物館」 |
歴史の継続性 | 1700年以上、継続的に歴史が紡がれている | 特定の時代で歴史が断絶している |
建築様式 | ローマ、中世、ヴェネツィア等が重なる「歴史の地層」 | ほぼローマ時代の様式で統一されている |
空間の用途 | 皇帝の霊廟が大聖堂に、回廊が広場に転用 | 本来の用途のまま保存・展示 |
体験価値 | 遺跡の中で食事や買い物を楽しめる | 過去の生活を「見学」する |
このように、スプリトの最大の価値は「過去の遺跡が、断絶することなく現代の生活と完全に一体化している」点にあります。この奇跡的な成り立ちこそが、世界中の研究者や旅行者を惹きつけてやまない理由なのです。
世界遺産たる7つの理由|ディオクレティアヌス宮殿の歴史的価値を徹底解説
なぜ「ディオクレティアヌス宮殿とスプリトの歴史的建造物群」は、ユネスコの世界遺産に登録されたのでしょうか。その背景には、他の遺跡にはない7つの際立った歴史的価値が存在します。
- 【起源】皇帝の終の棲家
- 【誕生】難民が創った都市
- 【建築】時代の地層(パリンプセスト)
- 【特異性】生きた遺跡
- 【転用】皇帝霊廟から大聖堂へ
- 【影響】西洋建築史の教科書
- 【保存】地下に眠る宮殿
これらの価値を一つずつ紐解いていくことで、スプリトという都市の奥深い魅力が見えてきます。
①【起源】皇帝の終の棲家:なぜディオクレティアヌス帝はこの宮殿を建てたのか
この壮大な宮殿は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスが、自身の引退後の隠居所として西暦305年頃に完成させたものです。彼はローマ帝国の広大な領土を4人で分担して統治する「テトラルキア」という画期的なシステムを導入した皇帝として知られています。
テトラルキアとは、1つの広大なローマ帝国を、正帝2名と副帝2名の計4人の皇帝が分担して統治するシステムのことです。これにより、帝国の防衛と経営の効率化を図りました。
長い統治を終えた彼が、終の棲家として選んだのが、故郷に近いこの風光明媚なアドリア海沿岸の地でした。宮殿は、豪華な居住空間であると同時に、侵入者を防ぐ堅固な城壁と見張り塔を備えた軍事要塞でもありました。これは、安定した統治を実現した皇帝でさえ、引退後の平穏な暮らしを願っていたことの表れと言えるでしょう。
②【誕生】難民が創った都市:宮殿が「生きた街」へと変貌を遂げた劇的な歴史
ディオクレティアヌス帝の死後、宮殿はしばらくローマ帝国の施設として使われていましたが、7世紀に劇的な転機が訪れます。近隣の大都市サロナが、アヴァール人やスラブ人の侵攻によって破壊されてしまったのです。
故郷を失ったサロナの市民たちは、堅固な城壁を持つこの無人の宮殿へと逃げ込みました。これが、スプリトという都市の始まりです。
彼らは、皇帝の広間や通路、中庭といった空間に自分たちの家を建て、生活を始めました。皇帝一人のためのプライベートな宮殿が、多くの人々が暮らす公共の「都市」へと生まれ変わった瞬間でした。廃墟となるはずだった宮殿が、予期せぬ形で新たな命を吹き込まれたのです。
③【建築】時代の地層(パリンプセスト):ローマ、中世、ヴェネツィア様式が重なる建築の博物館
スプリトの街を歩くと、まるで建築の博物館に迷い込んだかのような感覚になります。その理由は、ローマ時代の宮殿を土台に、その後の様々な時代の建築様式が「上書き」されているからです。このような状態を、専門用語で「パリンプセスト」と呼びます。
パリンプセストとは、元々「一度書かれた文字を消し、その上から新たな文字を書き加えた羊皮紙」を意味する言葉です。建築の分野では、古い建物を土台に、新しい時代の様式が次々と上書きされていく様子を指す比喩として使われます。
例えば、古代ローマ時代のアーチの横に、中世に造られたロマネスク様式の小さな教会が佇み、その上にはヴェネツィア共和国時代に流行したゴシック様式の窓が見られる、といった光景が日常に溶け込んでいます。一つの場所で、これほど多様な時代の建築が調和し、一つの都市を形成している例は世界的に見ても極めて稀です。
④【特異性】生きた遺跡:ポンペイとの比較でわかる、人が今も暮らすことの奇跡
世界遺産スプリトの最大の特徴は、遺跡でありながら、今なお約3,000人の人々が生活を営む「生きた街」であるという点です。これは、他の有名な古代遺跡と比較すると、その特異性がよくわかります。
例えば、同じローマ遺跡であるポンペイは、火山の噴火によって一瞬で時が止まり、「死の都」として当時の姿を保存しています。私たちはそこを訪れ、過去の人々の暮らしを「見学」することはできますが、そこで生活することはできません。
一方でスプリトは、宮殿が建設されてから1700年以上もの間、歴史が断絶することなく、人々が祈り、働き、暮らしてきました。古代の石畳の上を現代の子供たちが走り回り、ローマ時代の列柱廊でお茶を飲む。この過去と現在の見事な共存こそが、スプリトの比類なき奇跡なのです。
⑤【転用】皇帝霊廟から大聖堂へ:歴史の皮肉が物語る、信仰の象徴的転換
スプリトの歴史のダイナミズムを最も象徴しているのが、宮殿の中心にそびえる聖ドムニウス大聖堂です。驚くべきことに、この建物はもともと、キリスト教徒を激しく迫害したことで知られるディオクレティアヌス帝自身の霊廟(お墓)でした。
しかし、ローマ帝国がキリスト教を公認し、国教とする中で、歴史は大きく動きます。皇帝を祀るための異教の建物は、キリスト教の信仰の中心地へとその役割を変えられたのです。皇帝の石棺は取り払われ、皮肉にも彼が殉教させた聖人ドムニウスの遺骨が祀られることになりました。
迫害者の墓が、被迫害者の聖堂へと生まれ変わる。この劇的な「転用」は、ヨーロッパにおける価値観の大きな転換点を、一つの建物の中で見事に体現しているのです。
⑥【影響】西洋建築史の教科書:新古典主義をヨーロッパに広めたロバート・アダムの発見
スプリト宮殿は、ただの古い建物ではありません。18世紀のヨーロッパのデザイントレンドに、絶大な影響を与えた「生きた教科書」でもありました。その立役者となったのが、スコットランドの建築家ロバート・アダムです。
彼は1757年にスプリトを訪れ、この宮殿の詳細な実測調査を行いました。そして、その成果をまとめた豪華な図面集『ディオクレティアヌス宮殿遺跡』をロンドンで出版します。この本は、ヨーロッパの建築界に大きな衝撃を与えました。
この本を通じて、ローマ帝国後期の壮大かつ洗練された建築デザインが広く知れ渡り、古代ギリシャやローマの古典に立ち返ろうとする「新古典主義」という建築様式がヨーロッパ全土で大流行するきっかけとなったのです。スプリト宮殿は、まさに西洋建築史の重要な一ページを飾る存在と言えます。
⑦【保存】地下に眠る宮殿:驚異の保存状態を誇る巨大な地下ホールの謎
宮殿の地上部分が、長い年月を経て都市へと姿を変えていく一方で、その地下には、建設当初の姿を奇跡的に留める広大な空間が眠っていました。これが「ポドゥルミ」とも呼ばれる宮殿の地下ホールです。
この地下空間は、地上の皇帝の居住区画と全く同じ間取りで作られており、土台としての役割を担っていました。中世以降、この場所は街のゴミ捨て場や倉庫として使われ、次第に土砂や瓦礫で埋もれていきました。
しかし、その「忘れ去られていた」ことこそが、地下ホールを破壊や改変から守る結果となったのです。20世紀に入って発掘作業が進むと、そこには驚くほど保存状態の良いローマ時代の構造が現れました。この地下宮殿のおかげで、私たちは皇帝が暮らした空間の壮大さを、今でもリアルに体感することができるのです。
宮殿都市の構造を歩く|主要な5つの構成資産と歴史的意義
スプリトの街は、まさに屋根のない博物館です。ここでは、特に重要とされる5つの構成資産をピックアップし、その見どころと歴史的な意味を解説します。この知識があれば、街歩きがさらに楽しくなること間違いありません。
- ペリスティル(列柱広場)
- 聖ドムニウス大聖堂と鐘楼
- 地下宮殿(ポドゥルミ)
- ユピテル神殿(洗礼堂)
- 金・銀・銅・鉄の4つの門
それでは、宮殿の中を一緒に歩いてみましょう。
1. ペリスティル(列柱広場):宮殿と都市の心臓部として機能した公的空間
ペリスティルは、ディオクレティアヌス宮殿のまさに心臓部にあたる、列柱に囲まれた美しい広場です。もともとは、皇帝が民衆の前に姿を現し、謁見を行うための儀式的な空間でした。
南側には皇帝の私的な居住区への入り口が、東側には皇帝霊廟(現在の大聖堂)、西側にはユピテル神殿が配され、宮殿の最も重要な施設に囲まれています。
宮殿が都市へと変わってからは、スプリトの市民たちの中心的な広場として機能し続けてきました。古代ローマの列柱に腰かけてカフェを楽しむ人々の姿は、過去と現在が共存するスプリトを象徴する光景です。エジプトから運ばれてきた本物のスフィンクスが、3500年の時を超えてこの広場を見守っています。
2. 聖ドムニウス大聖堂と鐘楼:世界で最も古いカトリック大聖堂の一つ
八角形のユニークな形をしたこの大聖堂は、前述の通り、もとはディオクレティアヌス帝の霊廟でした。7世紀に大聖堂へと転用され、その基本的な構造は世界で最も古いカトリック大聖堂の一つとされています。
内部には、見事な彫刻が施された説教壇や、ロマネスク様式の傑作とされる木製の扉など、歴史的な至宝が数多く残されています。キリスト教を迫害した皇帝の墓が、キリスト教の聖人を祀る場所に変わったという、歴史の皮肉とダイナミズムを肌で感じられる場所です。
隣にそびえる高さ約57メートルの鐘楼に登れば、宮殿の赤い屋根瓦とアドリア海の青い海の素晴らしいコントラストを一望できます。
3. 地下宮殿(ポドゥルミ):皇帝の暮らしを現代に伝えるタイムカプセル
ペリスティルの南側にある階段を下りていくと、そこには広大な地下空間が広がっています。これが、驚異的な保存状態で知られる地下宮殿(ポドゥルミ)です。
この空間は、地上にあった皇帝のプライベートな居住空間や公邸を、そのまま地下に再現したかのような構造になっています。地上部分が中世以降の改築で姿を変えてしまったため、この地下ホールこそが、建設当初の宮殿の姿を最も正確に伝えてくれるタイムカプセルのような存在です。
かつてはゴミで埋め尽くされていたこの場所は、現在では発掘・整備され、通路を歩いて見学することができます。その巨大な石造りのヴォールト天井を見上げれば、ローマ建築の技術力の高さに圧倒されることでしょう。
4. ユピテル神殿(洗礼堂):異教の神殿からキリスト教施設への転用例
ペリスティルの西側にある小さな建物が、もともとローマの最高神ユピテルに捧げられた神殿でした。ディオクレティアヌス帝はユピテルを自身の守護神としており、宮殿の中でも重要な位置を占めていました。
この神殿もまた、中世になるとキリスト教の洗礼堂へと転用される運命を辿ります。大聖堂と同様に、異教の信仰施設がキリスト教の施設へと姿を変えた好例です。
入口の上には美しい彫刻が残り、内部には、クロアチアの著名な彫刻家イヴァン・メシュトロヴィッチ作の洗礼者ヨハネのブロンズ像が置かれています。天井の格間装飾(ごうまそうしょく)は、ローマ時代の見事な技術を今に伝えています。
5. 金・銀・銅・鉄の4つの門:それぞれの役割と都市の発展の歴史
ディオクレティアヌス宮殿は、東西南北にそれぞれ一つずつ、合計4つの門を持っています。これらの門は、単なる出入り口ではなく、それぞれが異なる役割と格式を持っていました。
- 金の門(北門): 皇帝とその家族だけが使用した、最も格式の高い正門。
- 銀の門(東門): 宮殿のメインストリート「デクマヌス通り」に面した門。
- 鉄の門(西門): 軍事施設や作業場があった区画への門。
- 銅の門(南門): 海に面しており、皇帝が船で直接宮殿に入るためのプライベートな門。
宮殿が都市になってからは、これらの門は市民の生活動線として使われるようになり、門の外側へと街が拡大していく起点となりました。それぞれの門を通り抜けることで、宮殿都市スプリトの発展の歴史を感じ取ることができます。
「生きた世界遺産」が直面する現代の2つの課題
1700年以上にわたり、歴史と生活が共存してきたスプリトですが、現代ならではの課題にも直面しています。ここでは、その代表的な2つの課題を公平な視点で見ていきましょう。
1. 歴史的遺産の保存と市民生活の両立
世界遺産としての価値を未来へ引き継ぐための「保存」と、そこに暮らす人々の「生活の快適さ」をどう両立させるか、という難しい問題があります。
例えば、古い建物を修理する際には、世界遺産の景観を損なわないよう厳しい規制があります。これにより、住民は自由に家をリフォームすることができず、不便さを感じることも少なくありません。
一方で、人々が暮らし続けるからこそ、この遺産は「生きている」と言えます。遺産を博物館のように凍結させるのではなく、住民の生活を守りながら、いかにして歴史的価値を保存していくか、継続的な努力が求められています。
2. オーバーツーリズム(観光公害)との共存の模索
近年、特に有名ドラマのロケ地となったことなどから観光客が急増し、オーバーツーリズム(観光公害)が深刻な問題となっています。
観光客が増えることは、街に経済的な潤いをもたらすという大きなメリットがあります。しかしその一方で、家賃の高騰により元々の住民が街を離れざるを得なくなったり、狭い路地が観光客で溢れかえり、日常生活に支障をきたしたりといったデメリットも生じています。
世界的な遺産であるスプリトの魅力を多くの人に知ってもらうことと、住民の穏やかな暮らしや遺産の持続可能性を守ること。この2つのバランスをいかに取るかが、今後の大きな課題となっています。
ディオクレティアヌス宮殿とスプリトに関するよくある質問
ここでは、ディオクレティアヌス宮殿とスプリトについて、多くの人が抱く疑問にQ&A形式でお答えします。
Q1. 宮殿内には今でも人が住んでいるのですか?
はい、住んでいます。 宮殿の城壁内には、現在でも約3,000人の人々が暮らしています。ローマ時代の建物を改装したアパートや、中世に建てられた家々が、今も現役の住居として使われています。また、レストランやショップ、ホテルなども数多く営業しており、歴史と現代の生活が完全に一体化しています。
Q2. 観光のベストシーズンと、見学に必要な時間の目安は?
観光のベストシーズンは、気候が穏やかで観光客の混雑も比較的少ない5月~6月と、9月~10月です。 夏の7月~8月はハイシーズンで最も活気がありますが、非常に暑く混雑します。
見学に必要な時間は、主要なスポットを駆け足で巡るだけなら2~3時間ほどですが、大聖堂や地下宮殿の内部を見学したり、街の雰囲気をゆっくり楽しんだりするには、最低でも半日、できれば丸一日あると良いでしょう。
Q3. 有名なドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のロケ地はどこですか?
スプリトは、世界的に大ヒットしたドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の重要なロケ地として知られています。特に、地下宮殿(ポドゥルミ)は、主人公の一人であるデナーリスがドラゴンを飼育していたシーンの撮影に使われました。 その他にも、宮殿内のいくつかの路地がロケ地となっており、ファン向けのウォーキングツアーも人気です。
Q4. なぜ「スプリトの歴史的建造物群」という名称なのですか?
世界遺産の正式名称が「ディオクレティアヌス宮殿」だけではないのは、その価値が宮殿単体だけでなく、宮殿が都市へと変貌し、さらにその外側へと発展していった中世以降の街並みも含めた「歴史的な複合体」として認められているからです。ローマ時代の宮殿を核として、その後に続く様々な時代の歴史的建造物が一体となって、この世界遺産の価値を形成しています。
まとめ:歴史が息づく街へ。過去と現在が共存するスプリトの物語は未来へ続く
この記事では、世界遺産「ディオクレティアヌス宮殿とスプリトの歴史的建造物群」が、なぜこれほどまでにユニークで価値ある場所なのか、その7つの理由と歴史的背景を深く掘り下げてきました。
皇帝一人のための宮殿が、歴史の偶然によって難民の都市となり、1700年以上にわたって人々の生活の舞台であり続けてきたという、他に類を見ない物語。それは、古代の石畳に刻まれた時代の層と、今を生きる人々の息づかいが見事に融合した、奇跡のような景観を生み出しています。
スプリトは、単に過去を「見る」場所ではありません。過去と共に「生きる」場所です。この記事を通して得た知識を片手に、ぜひ一度、この生きた歴史の舞台を訪れてみてください。あなたの世界遺産への旅が、より深く、忘れられない体験となることを願っています。